Klara and the Sun by Kazuo Ishiguro
イシグロ氏がWaterstonesのインタビュー動画で「最初は絵本の構想だったのだけど、娘(作家で書店勤務)に見せたら『子供のトラウマになる』と云われて小説になった」と云っていて、然もありなんという感想。
ディストピアSFなのであろうけど、どこか寓話的、童話的なのは恐らく世界をゼロから経験し学んでいくクララの一人称故の限定的な世界観にも帰するものが大きいだろう。(前述インタビューによると「絵本ではよくあるぬいぐるみや人形といった主人公の視点」)
店、家、街――そこから外の世界は「あるけれど、無い」。クララの「ジョシーのAF」という役割を超えた世界であるから。その先に広がる恐らく残酷で苛烈な選別社会、それ以前に起きた悲劇と人々の感情の絡まりについては、クララの緻密でありながら説明の不足した観察と他の登場人物の科白から推し量ることしかできない。
無私の忠誠、奉仕、自らの力の及ぶ限り相手の幸せを思った行動を取ること――その内発的な動機がプログラムであるか否かだけの差であれば、発露するものが愛か愛でないかは一体誰が決めるのだろう。
そのプログラムですら「学習」して発展していくものであれば、AIと人の心との違いは?魂の解体/解読は可能か?
憎悪、嫉妬、怒りを一切伴わない愛情があるのだとすれば、その欠如こそがクララを人たらしめない理由ではないだろうか。
「子どもの孤独を埋めるもの」として消費され、子ども時代が終わるとともに存在理由を失うAF。それを自ら受け入れ、AFも持ち主も疑問にも抱かない。(恐らく一般的なAFよりも大事にされていたクララですら)
ヒトの形をし、人語を解し、学習し、友情といえる交流をしていた相手を命の無い物体であるからと簡単に廃棄できるだろうか?いかに情緒的と云われようと現実では多数の人が抵抗を覚えるのではないだろうか。
作中でヒトとAIの外見の違いはまったく言及されていないが、AIは少なくとも自分以外のAIをすぐに識別できているようである。これはヒトにも認識でき、「これは生命体ではなく機械である」と思わせ、消費対象と割り切らせるに足る違いだろうか。
それと矛盾するようだが、自分より絶対的に立場が弱く、常に自分を慕い、自分がまさに存在理由である「命を持たない」存在に対して少しでも残酷にならないと自信を持って云えるだろうか。有機的な存在ではないという理由を言い訳にして、自分の理不尽な振る舞いや邪険さを正当化してしまわないか。
命と魂を構成するものは何か、科学の進歩が倫理の境界線を躙り越すのはどこかを問いかける点ではNever Let Me Goに通ずる作品。ただ絵本を基にしたものであるがために小品と云った感は否めず。
ノーベル文学賞受賞後初の作品という鳴り物入りで期待が大きかったということもあるけれど、もう少し長い作品を読みたかったというのが正直なところ。(しかし恐らくそのおかげで潤沢な予算が押さえられ、実際に絵本のように美しい装丁が可能になったのだから文句は云うまい)
インタビュー動画
https://youtu.be/PJUvZHnkfGw