前よりも悲しい場所

 娘の学校の9年生の子が亡くなった。娘が小学生の時に同級生だった男の子の妹さんで、私も一時期学校のクラブ活動で関わったことのあった子だった。
 その一報が先週金曜日に学校から入り胸を痛めていたところ、今朝、なんと娘の同級生も先週の水曜日に亡くなっていたという報せが追って入った。
 二人ともCovid-19ではなくてそれぞれ別の病気なのだけれど、まだまだ子供の年齢の命が続いて失われるということの悲しみに視界が暗くなる。親御さんの悲しみは幾ばくか。

 娘の学校は入学時からずっとクラスが固定なので、娘も3年半同じクラスで過ごした子が亡くなったことにショックを受けている。
 病気が発覚したのが去年の秋。ご家族の要望で余り周囲には伝えていなかった上、ロックダウンのせいで年が明けてからはずっと学校に行っていなかったので、娘としては知る由もなく、驚きと悲しみをうまく処理できない様子である。

 10代の子ども達と暮らしていると、彼らがどんなに命と時間と愛情に無頓着であるか驚かされる。
 そしてきっと彼らはそうあるべきなのだ。それらがふんだんにあって当然だと思って日々贅沢に生きているべきなのだ。必ずしもそうではないということなど、どんな人生を送っていてもいつかは知るものなのだから。
 死など、遠いところの物語でよい年齢なのだ。

 10年生には昼前に通知があり、午後のオンライン授業は出席してもしなくてもよいということになった。
 娘には近所に同じ小学校から進学した仲良しがいるので、会いに行くと云って雪の中歩いて出て行った。

 朝から点ほどの小ささで降っていた雪が一回り大きさを増して、風も少し出て来た。点から羽虫ほどの大きさへ、それから花びらほどの大きさへ。可愛らしいと思う。この雪を見ることのなかった二つの命を思う。

 親御さんたちはどのようにこの朝を迎えたのだろう。自分の子の生きていない世界のがらんどうさを想像して息が浅く、苦しくなる。
 私の子供たちが同じ状況になったら、私はきっと自分の命を差し出してでも生きて欲しいと願うだろう。きっと彼女らの親御さんたちもそう願ったのに違いなく、叶えられなかった世界の非情さがどうしようもなくやるせない。
 どうして私たちはそこまでして子供たちに生きて欲しいと願うのだろう。この必ずしも優しくはない、厳しく混沌とした世界で。

 小一時間後、雪まみれで帰って来た娘の顔の皮膚は澄んで見えた。
 友達の顔を見ること、声を聞くこと、生きている「外」の命に触れることで心の息が吹き返すことがある。

 紺のマフラーから雪を払いながら、生きてね、と思う。

 神を信じない私の命への信仰として、生きてね、と強く思う。

 

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